先日、自分の歳とあまり変わらない知人が病気で急逝した。
ほんの数日前に会話をして、近日中に食事をしようと約束をしていた。
これは精神的にはかなりショックだった。葬式に参加した帰り道、車の中で自分の人生について考えてしまった。
気が付けば50歳代も半分が過ぎ、いわゆるアラ還と言われる歳になっている.

自分ではいつまでも若いと思っていたが、もういつ死んでもおかしくない歳に近づいているということだ。江戸時代であればとっくに死んでいるかもしれない。
他にも最近、同年代の友人で癌が4カ所も転移しているのが見つかった。今は抗がん剤の治療を頑張っているが、死ぬほど苦しいと話している。
もちろん助かって欲しいと心から願っているが、正直に言うと本人は覚悟しているかもしれないと感じてしまった。
俺がこの歳になってミニマリストを目指している理由は、実は自分の身の廻りで立て続けに起きたこれらの事と無関係ではないと思う。
結論から言えば、「ミニマリズムは生前整理かもしれない」と思い始めている。
もちろんミニマリズムは本来、そのような消極的で終焉的な思想ではないだろう。一方で、歳を取れば取るほどにそのような意味合いが強くなることも否めない。
ミニマリズムは不要なモノを減らし、ストレスを減らし、無駄を無くすことで、生き方や思考がシンプルになり、人生において最も重要なことに全てを集中することができる。
それは本当の夢を叶えるための力になり、素晴らしい未来を切り開くための道具となる。特に若い人がそれに気付いてミニマリストを目指すのは素晴らしいことだろう。

俺はいつ死んでも自分の人生には全く後悔していないが、死んでからも家族や他人に迷惑を掛けたくはないと強く思う。
できれば家族だけの質素な葬儀をしてもらい、骨は樹木の下か海にでも撒いて欲しいと思っている。お墓も子孫の負担になるだろうから必要ない。
上の子は来年で大学を卒業する予定だし、下の子もあと2年で大学を卒業する。あと2年ほど頑張ればようやく親としての最低限の役割は果たしたことになりそうだ。
それからは妻と二人で生きていくのだろうが、恐らく自分が先に死ぬだろうと思っている。そしてその時に最低限のモノしか身辺に残していなければ、きっと残された者にとって後片付けも楽だろう。
元気なうちに家の中でも職場でも不要なモノを粛々と処分しておく。これからは最小限に必要なモノだけで暮らしていれば、いつ死んでも安心である。
いつ死んでもいい準備をしておくことは、決して早く死にたいと言うことではない。むしろこれから強く生きるための前向きな準備ではないだろうか。
そう考えると、実に心が安らぐように感じるのである。ミニマリストになって身軽な状態で、残された人生を妻と一緒に最大限楽しみたい。